シスター・パニック!

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「……んだこれ……人多すぎんだろ……?」

土曜の昼、原宿駅から降り立ちタイガはあんぐりと口を開けた。
ぼうっと突っ立っていると、後ろの改札口からどんどんと人が出てきてぶつかりそうになる。タイガは慌てて人を避け、流されるように横断歩道の前まで来た。
隣にいるなまえは、慣れた様子で人混みを避けている。

「週末の原宿だしね。私も久しぶりに来たから驚いちゃった」
「……ここ、歩くんすか……」
「お店まで行くには、ここを歩いて突っ切った方が早いから……どうしても嫌なら大回りする?」
「え!あ、いや!全然、大丈夫……っす」
「あ、信号変わった」

行こ、と慣れたように歩き出すなまえを、慌てて追いかけるタイガ。一人で来ていたら確実に即引き返すような竹下通りの人・人・人の大洪水に、タイガは逃げたくなる気持ちをぐっとこらえながらなまえの後ろを歩く。

――こうなったのも、全てあいつのせいだ。

タイガは脳裏にお団子ヘアの女性――つまりは姉の大空だ――を思い浮かべ、苦々しい顔でため息をついた。

 

 

 

***

 

 

 

事の始まりは先週の土曜だった。
夕飯も終え、歯磨きでもするかと部屋で寝転がっていたタイガは、無造作に枕横に置いたスマートフォンが、ヴヴヴ、と震えているのに気付く。あ?と寝転がったまま手に取ると、画面には、自身の姉からの着信を示す画像。

「……げ。んだよ……」

思わず顔を顰め、しばらくそのまま泳がせてみるが、着信はなかなか止まずに鳴り続ける。
母親からの電話についでに姉が出てくることはあっても、姉から直接、ということは少ない。それだけに、なんというか――端的に言えば、とてつもなく、嫌な予感がする。
そんなタイガの思いとは関係なしに鳴り続けるスマホに、はああ、とため息をつき、仕方なく起き上がりタイガはそれを取った。

「……あー。なんだよ」
「あー!!もう!やっとでとったー!おっそいんだげど?!」
いきなりうるさい。
タイガは少しスマホを耳から離す。
「うるせーな!今飯食ってたんだよ!」
しれっと適当に嘘を交えるが、大空は聞いているのかいないのか、電話の向こう側に話しかけるように大きな声を出す。
「あ、ね〜お母さん、そういえばあれどごやったー?プリズムランドのさぁー」
「聞けよ!」
「あ、ごめんごめーん」
「……で、なんの用だよ」
「ん?あ、そーそー。あのね、原宿にさ〜有名なセレクトショップあるでね?プリズムストーンとかディアクラウンとか扱ってるお店!」
「……いやしらねーよ」
「はー?!東京にいでそんなことも知らないの~?!まいーや、でさ、そこに来週から店舗限定のトップスが発売されるんだけど〜」
「……」
嫌な予感がする。
「タイガさー、買ってきてよ」
「はあああ?!」
的中だった。大空はタイガの反応にも御構い無しに続けて話す。
「お金はお母さんに振り込んどいてもらうからさ〜。来週の土曜から発売だから、オープン前に並んで買ってね。あ、昼から行ったら売り切れてるかもしんないから絶対オープン前からだからね!あんた起ぎるの遅いからちゃんと朝早く起きてよ~?で、買えたらうちあてに郵便ですぐ送って。あー心配しないで!そのぶんもちゃんと振り込んでおくし――」
「待て待て待て!!」
矢継ぎ早にまくしたてる大空に、タイガは慌てて大きな声をあげて遮る。
「なによー?」
「なによじゃねえ!んなの、無理に決まってんだろ!」
「なんでよー?買うだけじゃん」
「はぁ?!買うだけっつったってんな、おめ、女のいくような店なんて」
「だいじょーぶだって!別に男子も入店できるから」
「そーいう問題じゃねえ!」
「じゃーなにが問題なのよー?」
「だ、だいたい原宿なんてんなチャラチャラした街いけっか!」
「は〜?意味わかんない!あんたそれでどーやって東京で生活してんのぉ?」
「俺は基本ここから出ねえし!」
「うっそ!ねーお母さんー!タイガのやつ〜、せっかく東京さいるのに引きこもってんだってー」
大空が、電話の近くにいるのであろう母親に話しかけている言葉が、何のフィルターもなくそのまま聞こえてくる。
「引きこもりじゃねえよ!!」
「似たよーなもんでしょー?ほら、お母さんもたまには色んなとこ行った方がいいって」
そう言うと、電話の向こうから母親が「せっかく東京さいるんだから、たまには遊びに行ってみたら〜?お姉ちゃん助けると思って」と声が聞こえてくる。
「ほら!」
どこか勝ち誇ったような姉の声に、タイガはぐう、と呻き声を漏らす。
「てめ……ずりーぞ!」
「何が?んじゃ、電話切ったらLINEで買って来てほしいもの送るから!分かんなかったらこの画面店員さんに見せてよ」
「お、おい!マジで言ってんのか?!」
話が決定の方向に流れ始め、慌ててタイガは一人ベッドの上に立ち上がる。了承した覚えは全くない。
「じゃなかったらわざわざ電話なんてしないし。てゆーかこんな時のためにあんたをエーデルローズに入れたんだから!東京にいるのもタダじゃないんだから地の利を活かしなさいよー!」
「う……」
確かに、自分一人遠い青森の地から寄越し、学費やら寮費やら仕送りやら何かとかかっているのは事実だ。そこを突かれると痛い。
「別にそのためじゃないけどねぇ」と遠くから母親の声が聞こえ、あわてて打ち消すように大空の声が聞こえる。
「ちょっ!お母さん余計なこと言わないで!今せっかく――」
「……ったよ」
「ん?」
「わあったよ!買やいいんだろ!」
「!やったー!!タイガやるぅ♪」
「……あとで送っとけよ」
ころりと態度を変える姉に、タイガは苦々しい表情で、情報と金、と言い電話を切る。
すぐさまLINEに送られてきたそのセレクトショップの店舗情報、商品情報――ご丁寧にGoogleMAPのスクリーンショットまである――を見ながら、タイガはあぐらをかき、はあああ、とため息をついた。

 

 

 

***

 

 

 

まず当たってみたのはやはりレオだった。

――昨日仕方なしに姉からの横暴な依頼を受け入れたものの、一人で指定された店に行くのは正直難しい。いや、難しいというより、ほぼ無理である。となれば、誰かについてきてもらう必要がある。そう考えた時、原宿といった場所や買い物といった行動からして、自然と候補に挙がったのがレオだったのだ。

姉の電話の翌日の夕食時。一人速攻で食べ終えたタイガは、対照的にまだ全体量の半分以上あるご飯を食べるレオにそっと近づき、言い辛そうに声をかける。

「あー、レオ」
「はい?」
「おめぇ、来週の土曜あいてっか?」
「ええ?空いてますけど、どうしたんです?」
「え、なになに?タイガきゅん、ちゃんレオにデートのお誘い?」
その言葉に、まだ食べ終わってないメンバーが、ん?と首を傾げてタイガを見る。カケルが囃し立てると、タイガは慌てたように大きな声を出した。
「違えよ!ただ買い出しに付き合ってほしいっつーか、なんつーか……」
「買い出し……ですか?」
レオが箸を置いて目を瞬かせる。タイガは息を吐き、先日の姉とのやりとりをざっくりと掻い摘んでレオに話した。
「なるほど……そういう事ですね。そのお店は私もたまに行くので、一緒に行くのはもちろんいいんですけど……」
レオの顔が曇ったのをみて、タイガは再び嫌な予感を感じる。
「……なんだよ」
恐る恐る先を促すと、レオは気まずそうに口を開いた。
「土曜日空いてるのは、午後からなんです……お店のオープン……ってことは朝から並ばないとですよね……午前はユキ様とお約束が……」
「う……」
そうか、仕方ねえな、とため息をつき、タイガは他のメンバーをちらりと見る。
ユキノジョウはレオと約束があるから無理。ユウは――
「俺もその日は一日コウジとスタジオにいるからな〜」
……無理だ。
となると――エプロンを外し座りかけるミナトに視線を動かす。
「僕もその日はちょっと……近くに新しいスーパーがオープンするから、食品を買い込むつもりなんだ」
オープンセールで色々物が安いんだよね、野菜とかお肉とか、と話すミナト。みんなの食糧がかかっている。これも無理だ。
続いてシンに目を向ける、が。
「ああ……ごめんタイガくん。僕もその日はルヰく……あ、いや、えっと、友達と、約束が……」
無理。
仕方なく最後の最後にカケルに目を向ける。
「って、俺っち最後の選択肢なの?!傷つくんだけど〜?!」
「この際おめえでもいい!行けんのか?!行けねーのか?!」
「酷い言い草だなぁも〜。行ってあげたいとこなんだけどねん、その日は俺っちもちょーっと朝一で外せない会議が入っちゃっててね〜……」
「う……」
「原宿に行くタイガきゅんなんて面白案件すぎて行きたかったけどにゃ〜」
面白がってんじゃねえ、と悪態をつく気力もなく、タイガはその場ではああ、と項垂れる。
頼れそうな人材は全て全滅。
なんだかんだで、姉には逆らえない。
かといって、女性客の多い店に――いやそもそも原宿に――一人で行くのは無理だ。
「……っどうすんだ……」
皆が気の毒そうにタイガを見守る中、カケルが何か思いついたようにぴんと人差し指を立てる。
「タイガきゅん、あれじゃん!あの人がいるじゃん」
「は?」
「これなら一石二鳥だし〜」
「……カヅキさんなら来週はオバレの仕事で東京にいねえぞ」
「いやそっちじゃないって!てゆーかカヅキさんもそーゆーの得意じゃないでしょ!じゃなくて、なまえさん!」
「……は?!」
その名前を認識した瞬間、タイガは首から頭のてっぺんにかけて瞬時に真っ赤になる。
「なまえさんなら女の子だし、うってつけじゃん♪デートにもなるし〜」
「え?!や、い、いやそれは……」
「そーじゃん、それがいいよ」
「うむ。下手に男二人で行くよりも」
「よっぽどカモフラージュできるし自然だよね」
「よかったね、タイガくん!」
「待て待て待て!!」
勝手に決まっていく一連の流れを振り払うように、タイガは腕を大きく動かす。
「そ、それは……無理だ」
「ええっ?!なんでですかぁ?!」
神妙な顔つきでそう呟くと、レオが目を丸くして声を出す。その声の大きさに少し驚きながら、タイガは目を逸らした。
「い、いや。なんつーか……その……そ!そもそも!なまえさん土曜空いてっかもわかんねーし!」
「?今から聞けばいいじゃん」
タイガの呟きに、ユウがあっけらかんと答える。
「……や。ま、そ、そうだけど」
「うふふ。じゃー、俺っちが聞いてあげよっか〜?」
さっとスマホを用意し、耳に当てるカケルに、タイガは慌てたように目を見開く。
「だああ!!や、やめろ!聞くなら俺が聞く!」
「うん、はい。じゃあ今すぐ聞いてねん」
カケルはその反応を分かっていたかのように、すぐにスマホを伏せ、左手を前に出しタイガを促すよう口角を上げた。
「えっ……」
「ほら。早くしないとなまえさんも予定が埋まっちゃうかもしれないだろ?」
ミナトがにっこりと、しかし圧を感じる笑顔でタイガを見る。
「え、あ、んだけど」
「あ、もしかしてタイガくん、なまえさんの連絡先知らないとか……」
「んなわけないない。結構マメにLINEしてるんだからこのヤンキー。俺っちたちのグループLINEの返信は遅いくせにさ〜」
「ええ?じゃあどうして聞かないんですか?」
シンの真っ直ぐな指摘に、タイガはうっ、と言葉に詰まる。
「さあ、それは香賀美に聞いてみないと」
「そうだな」
ニコニコと笑う上級生二人に、タイガは何も言えず押し黙るばかりだ。
カケルは持っていたスプーンをくるくる教鞭のように回し、だから〜、と呟く。
「たぶんね、タイガきゅんはカッコ悪いとこなまえさんに見せたくないわけよ〜。ほら、エーデルローズの新校舎入っただけであんなにキョドっちゃうわけでしょ?原宿なんて人混みの中いって女の子たちがたっくさん集まるお店に行ったら……ねぇ?」
「ああ!なるほど!なまえさんに、人混みの中でうまく動けない自分を見られたくないってことですね!」
「シン、てめえ!」
「わあぁ、ご、ごめんタイガくん…!」
シンが悪気があって言っているわけではないのがわかるだけに、タイガはただただ赤面しながら怒鳴るほかなかった。
「……っ、いい!おめぇらには頼らねえ!」
ふん、と腕を組み6人に背を向けるタイガに、おや、とミナト達が目を丸くする。
「……自分でなんとかする!」
自分で連絡する、の間違いじゃないの〜?と戯けるカケルに、タイガはあぁ?!と怒鳴りながら拳を振り上げる素振りをした。

 

 

 

***

 

 

 

実際、カケルの言った通りではあるのだ。
自室に戻ると、タイガはなまえに送るメッセージをタップしては消し、消しては作り直すというのをかれこれ1時間繰り返していた。
よし、とようやく誘い文句を決め、送信ボタンをタップする。
そのままベッドの上でうつ伏せになりながらスマホを握っていると、ほどなくしてポロン、と通知の音が鳴る。慌ててタイガは顔を上げた。

『そうなんだ……タイガくんも色々大変だね。その日は空いてるし、私でよければ、いいよ〜』
OKと書かれた看板を持つ犬のキャラクターのスタンプがぽん、と返ってくる。タイガは自分以外誰もいない自室で、遠慮なく顔を緩めた。慌てて、背を起こし座り直してメッセージを打つ。
『マジっすか!……すみません、なんかその、わざわざ』
『ううん。原宿ならたまに行くし、道も知ってるからまかせて』

「なまえさん……」
心強い返事に、思わず部屋で一人ポツリと呟く。

――こうなったら、絶対に格好悪い姿を見せないようにしなければ。
タイガは早速下調べをするため、スマホを開いて地図アプリを起動させた。
なまえに頼りきりにならないよう、なるべくスマートに事を運ぶのだ。

 

 

 

***

 

 

 

――と、先週には誓ったはずだったのに。

「うぉ、お、んだこれっ!人が……うわ!」
「タイガくーん、大丈夫ー?」

竹下通りに入るや否や、すぐにタイガが進もうとする逆方向からの人の流れに巻き込まれ、タイガは押し戻されるように通りの入口へと流されていく。
なまえは慣れた様子でスイスイと人の隙間を縫い、いつのまにかだいぶ前の少し空いたスペースに立っている。

「す、すんません!」
「ゆっくりおいでー」

なるべく男性がいるあたりを狙いながら、恐る恐る人混みに割り込み、なんとか数メートル先のなまえの居場所まで辿り着いた。

「はー、はー……、す、すみません……待たせちまって」
「ううん、それはいいんだけど……大丈夫?タイガくん……その……」
なまえが言い澱むように口を閉じかけ、また開く。
「言い辛いんだけど、こんな道がまだまだずっと続く……んだけど」
「いっ……!?」
「どうする?引き返してもいいし、大回りでも……それか、タイガくんここで待っててもらって私が行ってきてもいいよ?」
「え、や、いや!それはダメっす!」
ただでさえ付いてきてもらっているのに、それはできない。タイガは慌てて俯いた首をあげた。
「だ、大丈夫っす。別に、歩くだけだし……」
「そ……そう?」
その”歩くだけ”がなかなか上手くいかなかったの結果がこれなのだが、タイガは気を張ってそう口を開く。心配そうに首をかしげるなまえに、はい、と返事だけは元気よく返す。
――大丈夫だ。小さい頃、一度家族で来たことあるんだし。
そうやって自分を鼓舞するものの、正直当時も嫌だった記憶が強かったのか、ここに来たこと自体あまりはっきり覚えていないのだった。
何はともあれ、タイガとなまえは再び歩き出し、人混みの中に突入した。
「ひっ……!」
前から横一列になって歩いてくる女子高生の群れに、タイガは青ざめて飛び退く。どこか回避しようとするが、なにせ一列になっているものだから逃げ場がない。後退りしているうちに、いつの間にやらタイガは再び後方に流されかけていた。
「うお!」
「あ、タイガくんっ」
人混みに流されかけていくタイガに気がついたなまえが、慌てて腕を伸ばし、タイガの腕を掴む。
「なまえさ……」
「こっち!」
「へ?!え、あっ」
なまえはそのままするりとタイガの腕から手に自分の手をスライドさせ、ぎゅっと手を握りしめてきた。
瞬間、タイガは声にならない声を上げ、真っ赤に顔を染める。
「あ、あああ、なまえさん、あのっ」
「そのまま、ついてきて」
「え、あ、はいっ……」
真剣な表情のなまえにそれ以上何も言えず、タイガは急に脈打ち出した自身の心拍音が気になり目を伏せる。
なまえは上手いこと女性があまりいないスペースや空いたスペースをうまく活用し、スルスルと通り抜けていく。
タイガはなんとかその手を頼りにひたすら無心になって足を動かすほかなかった。
たまに隣を女性がすれ違うこともあったが、今のタイガにとってそれはタイガを脅かす要因とはならなかった。なにせそれ以上の衝撃が、今、自身の右手のひらに起きているのだから。
(……なんか、すげえ、手に汗かいてる気がしてきた)
タイガはちらりと繋がれた手を見遣る。気のせいか、自分の手だけやたら水気を含んでしまっている気がしてならない。
(……気持ち悪いって思われてねーかな)
急に不安になり、数歩足を速めてなまえの横顔を盗み見る。
なまえはなにを思ったのか、タイガの視線に気付きにこりと笑った。
「大丈夫?タイガくん」
「へ?!え、あ、な、なにがっすか!?」
あまりに汗をかいていることを指摘されたのかと、タイガが慌てて答えると、なまえはきょとんと目を丸くする。
「え?いや、だから人混みが……ぶつかったりしてない?」
「あ……あ、はい!だ、大丈夫……っす!」
勘違いした恥ずかしさについ下を向くと、ふっとなまえの手が離れた。思わず顔を上げ、再びなまえを見る。
「もうあとは前の人達に着いて歩くだけだから。この人混みだとどうせこれ以上動けないしね」
気付けば、周囲はうまいこと男性の歩行者ばかりになっている。なまえがここに誘導してくれたのかと、ほっと息をついた。
(だからか)
離された手に、ふと視線を落とす。
さっきは誘導に必要だから手を握った。今はそれが不要だから手を離した。
それだけのことだ。何も不思議じゃない。
――不思議じゃないから、困るのだが。

「着いた……っ!」
なまえと歩いてきた道のりは、普段タイガが体力作りのためランニングしている距離と比べるとたいしたことない距離だったが、それでもタイガは疲労困憊といった表情で肩で息をしていた。
額を流れる汗を手で拭っていると、なまえはタイガをキリッと振り返る。
「タイガくん、油断するのはまだ早いよ。ほら、並ばなきゃ!」
「うぇっ?!は、はっはいっ」
なまえに急かされ、店の入り口に向かうと――既にそこには20人ほどの客が並んでいた。もちろん、全て女性客だ。タイガは思わずひっ、と喉を圧迫されたかのような声を出し、なまえの後ろに隠れるように後退る。
「え?!な、な、なんでっすか?!まだ店開いてないっすよね?!」
タイガは思わずスマホで時間を確かめる。――9:30。店の開店時間は、午前10時のはずだ。大空に何度も釘を刺されたから間違いない。まだ30分前なのに、とタイガが思っていると、前からなまえの声が聞こえる。
「もう30分前だからね。やっぱりこのくらいは並んでるかぁ」
「えっ……そ、そーいうもんなんすか」
「そーいうもんなんだよ」
うんうん、と腕を組み神妙な顔つきで頷くなまえに、タイガはそうなんすか…とこれまた神妙な顔つきで目を細める。
「よし!ぼやぼやしてられない!並ぶよタイガくん!」
「えっ?!あっ、うっ、ッス!!」
今日はやけになまえが頼もしく見える。ヒールの音を鳴らしながら早く歩くなまえの後ろ姿に、そんなことを思うタイガだった。

列に並ぶと、なまえは早速スマホで購入するものをチェックし始めた。
「えっと。改めてだけど、タイガくんのお姉さんが買ってきて欲しいのはこの今日から発売の店舗限定トップスのSサイズ1点、でいいんだよね?」
「あ、は、はい」
「そっか……」
なまえが列の先頭に視線を向け、少し表情を曇らせる。
「え?どうか、したんすか?」
「ん……あのね」
なまえは顎に右手を添え、その右腕の肘を左手で支え、鋭い目つきで列を見続けている。その姿はさながら探偵のようであった。
なまえは他の人に見えないように、小さく手を出し、列の前方にいる店の店員を指さした。
「今、店員さんが出てきて整理券配ってるでしょ」
「え?あー……そっすね」
それがどうかしたのかとタイガがぼんやり立っているのと対照的に、なまえは一層鋭く目を細める。
「このショップ、限定品発売時には大抵こうして整理券を配るんだけど……列の長さがそんなに長くない時には配らないの。今あの帽子を被った店員さんが、入り口から出てきて列を確認して、慌てたように配り始めた……おそらく、今の列くらいで限定品が品切れになりそうだったからだと思うの」
「え?そ、そうなんすか?」
タイガは店員となまえを交互に見る。
「ということは……今、最後尾までで並んでるのが30人ほど。これまでのこのお店の傾向からいくともしかすると在庫は30を切るくらいなのかも……でも限定品は、タイガくんのお姉さんが欲しがってるもの以外にもあるし、トップスは1限だから……ギリギリいけるかな……でも……」
「……なまえさん」
――よくわかんねーけど、すげえ……!
タイガは今日の買い物に連れてくる人物選びが正解だったことを確信する。
「あ!タイガくん!オープンする!行くよ!」
「はっ、はい!」
「決して走っちゃダメ!でもモタモタしててもダメ!順番を守って少しだけ早歩きでね……!」
「っ、ウッス!」
いらっしゃいませー、という店員の声を、タイガは目つきの変わったなまえの後ろについて潜り抜けるのだった。

「よかったね、残ってて」
「はい!ありがとうございます!」
店に入った後、一直線に限定トップスに向かった二人は、あと5点ほどだったそれをなんとか1着取りカゴに入れることに成功したのだった。
あとは支払いを済ませるだけだ。レジの列に――また列に並ぶのかよと思わないではないタイガだったが――並び、ほっと安心した様子でお互いを見る。
「次の方ー」
「あ、はい」
タイガがカゴをスタッフに渡す。スタッフは慣れた手つきでバーコードを読み込んだあと、価格を告げる。タイガが財布を取り出そうとすると、何かに気付いたように店員が口を開く。
「あ、お客様」
「え?」
「あと220円で、ノベルティが付きますが、どうされますか?」
タイガは固まった。
「……のべる……?」
財布からお札を取り出そうとしたそのままのポーズでカチンと固まり、タイガが聞き取れた箇所のみ辛うじて繰り返す。店員はそんなタイガに特に何の反応も示さず淡々と続ける。
「はい。今ですとプリズムストーンかディアクラウンかどちらか選べますけど」
選べる?何を?と固まっているタイガの横で、なまえは冷静にそうなんですか、と頷いていた。
「そっか。せっかくならそれもお姉さんに送ってあげた方がいいよね、タイガくん」
「え?あ、え?」
「220円……んー……あ、じゃあこれも追加で」
なまえはレジ周辺をチラチラと探し、小さなカゴに入っていた何かを摘んでスタッフに出した。
「はい、こちらのヘアゴムですね。では1点ノベルティをお付けすることができますので、こちらからお選び下さい。プリズムストーンかディアクラウンどちらかのロゴ入りハンドクリームになります」
「プリズムストーンか、ディアクラウンかぁ。……タイガくん、お姉さんどっちが好きとかある?」
「え……えっ?!」
レジの店員となまえの会話のテンポについていけなかったタイガは、急に真横にいるなまえから小声で聞かれびくりと肩を動かした。
「え、あ、えーっと……」
(正直よくわかんねーけど……カヅキさんがよく出入りしてるし……)
「え、っと。プリズムストーンにします」
選び方の基準は趣旨と外れたものになったが、ひとまずなんとか会話に追いつくことができた。その事だけでとりあえず安心してタイガは息をつく。
「かしこまりました。少々お待ち下さい」
店員が手際よくトップスとハンドクリームをビニール袋に入れ、なまえに手渡す。なまえの物を、タイガが買ってあげたと思ったのだろうか。タイガはどこかこそばゆい思いをしながら、俺持ちます、とその袋を受け取る。
「よかったねー!買えて」
「はい。あの、ありがとうございます!」
これで姉にギャーギャー言われないで済む。タイガはようやく胸を撫で下ろした。
「どういたしまして。こんなことならいつでも呼んで」
いつでも、となまえが発した言葉に、耳がぴくりと動いた――気がした。実際には多分、赤くなっているだけなのだが。っす、とほとんど息を漏らすような微かな声で、タイガは返した。
「あ、つか」
「ん?」
「あの、アレ、良かったんすか?本当に」
「ハンドクリームのこと?うん、もちろん」
「でもあの……か、髪飾りの分余計に買わせちまって……」
結局ヘアゴム代の分は、なまえが横から支払ったのだった。
「いいのいいの。ちょうど手頃なのが欲しかったし」
「……」
なまえにもらってばかりだ。モノだけじゃなくて、色々。
(……俺も、もっと……)
なまえに頼られるようになりたい。
なまえに、何かを与えられる存在でありたい。
そう思うと、タイガの心臓の奥の方がまたぐっと痛んだ。
「タイガくん、優しいんだね」
「……へっ?!な、なにがっすか?!」
「だって、お姉さんのために苦手な所まで行って買い出ししてあげてるじゃない」
「え、あ、いや、それは別に……」
単に姉が口うるさかったからだが、そんな本音をここで口に出すのも気が引ける。タイガが頭を掻き恥ずかしそうにしていると、何を思ったのか、なまえは微かに笑った。
「あ、そうだタイガくん。せっかくだからさ、写真撮らない?」
「へっ?」
「タイガくん頑張って原宿行った記念、でさ」
「な、なんすかそれ」
「ダメ?」
「い、いや……まぁ、別に……ダメじゃねーけど……」
もとよりなまえからそう言われたらタイガに拒否権などないのだ。もっとも、そんな事はなまえの知った所ではないだろうが。少し抵抗するふりを見せながら、タイガはちらりとなまえを見た。やった、と言いながらどこから出したのか、自撮り棒なるもの――この前レオも使っていたので覚えている――に自分のスマホを取り付けている。
「タイガくん、スマホの方見てね。はい、チーズ」
「え、あ、……っす」
なまえがピースしてスマホの方を見ている姿とスマホ自体を交互に見ていると、特にポーズをとる間もなくカシャ、と音が鳴る。撮れた撮れた、と写真を確認するなまえの手にあるそれを、タイガはちらりと後ろから覗き込む。
――二人で撮った写真。
それを本当にさり気なく確認してから、なまえにバレないようすぐに目を逸らした。
なまえはそのまま何事もなかったかのように自撮り棒をシュルシュルと縮め、バッグに仕舞う。
「じゃあ、帰ろっか。今日はお疲れ様」
「あ、や。こっちこそ……ありがとうございました」
帰路は、なまえの提案で少し大回りをして、来た時とは別の駅から帰ることにした。
電車内で、最近のエーデルローズ寮内のちょっとした笑い話なんかを話しながら、タイガはなまえの髪の毛が日に照らされているのを見ていた。
(……そういや)
ちょうど、話題がミナトが家庭菜園にハマって着々とその規模を広げている――といったあたりに移ったところで、タイガは思う。
(……さっきの写真、後で送ってくれんのか?)
欲しいならさっさとそう言って送ってもらえばいい――ここにカケルがいたらそう言ったかもしれない。しかしそれが出来ているようならこうはなっていないのだ。
仲は良くなっている、はずだ。
それでも、いや、だからこそ、あと少しが、踏み込めない。
少し間違えただけで、奇跡的に成り立っている何かが、崩れ去ってしまうのではないか。タイガの中で、漠然とした不安が常に腹の底の方に蹲っているようだった。
「なまえさん」
「ん?」
見上げるなまえ。そんななまえに、
「いえ。今日はその、ありがとう、ございます」
今日何度目かもわからない、そんな感謝の言葉をかけるのが精一杯だった。

 

 

 

***

 

 

 

「届いたよー!ありがとタイガ!おつかれ〜!」
あの後、さっさと梱包して青森に品物を送ったタイガは、早速来た姉からの電話にしぶしぶ答えた。うるせえなと思いつつも、なんだかんだ、喜んでくれるのは嬉しいものだ。
あー、とかそーかよ、とかぶっきらぼうに相槌をうちながらも、タイガは笑みを浮かべて姉の歓喜に溢れた話を聞いていた。
とはいえあんな場所に行くのはもうごめんだ。二度とやんねえからな、と釘を刺しておこうと口を開きかけると。
「あ、そーいえばさ」
と姉が不思議そうな声を出す。
「なんか、プリズムストーンのロゴが入ったハンドクリームが入ってたんだけど」
「え?あー、ああ……」
そういえばその件については姉に伝えていなかった。タイガはなまえがヘアゴムをレジに出した時の光景を脳裏に思い浮かべる。
「これってさー、調べたら5000円以上買ったらついてくるノベルティって出てきたんだけどー。あのトップスだけだとギリギリ行かなかったはずのになんでこれあんの?いや、欲しかったから嬉しいんだけどさ〜」
タイガは少し得意げににやりと笑う。
なまえのおかげで、姉が望む以上の買い物をできて――普段わーわーとうるさい姉の一枚上手をとれたようで――気分が良かったのだ。
――だからだろうか。うっかり口が滑ってしまったのは。
「あー、そりゃ、なまえさんが少し買い足してくれて……そのノベルティ?ってやつ、くれたんだよ」
「へ?」
「――あ!!」
失言に気付き、慌てて、意味はないが口を塞ぐ。
しまった。俺は今、なんて言った……?
いや待て、向こうは聞こえてなかったかもしれない。まだ挽回は――
「えーーなになになに?!なまえさんって?!えっ女の子だよねその名前!!なにタイガあんた彼女できたのぉ?!」
(あああああ!!!)
時既に遅し。よりにもよって、家族の中で最も伝わってはいけない人物に伝わってしまった。
タイガは文字通り頭を片手で抱えながら俯くが、そんな弟の様子も知らない姉はテンションを高く保ったまま続けてくる。
「ちょっとほんとー?!なに、そのなまえちゃんって子と一緒に行ってくれたわけぇ?!ねーねーどういう子?同い年?年上?年下?ねえ写真は」
「だーーっ、うるせえよ!!」
「ねーー!おかーさーん、大ニュースー!タイガってば東京で彼女できだってー!!」
「ちげ……つか言うな!!まだできてねえよ!!」
「えっまだ?!まだってことはあんた……なに、片思いしてんのぉー?!ちょっとちょっと、全部聞かせなさいよー!!」
「〜〜〜っ」
ほんの数分前の自分の失態に、タイガは深く深く反省する。何かないか。ここから誤魔化す、いや、挽回する方法は――タイガは定期テストの時にも使った事がないくらいに頭をフル回転させるが、特に有効な手立ては思い浮かばなかった。
「別にそーいうんじゃねーから!た、たっただの……その……知り合い……っつーか……その」
「んで、どこで出会ったのー?」
「聞けよ!人の話を!!」
タイガの言い訳などお見通し、ということなのだろうか。あっけらかんと話を続ける姉に、タイガは真っ赤になって抗議する。
「ま、いーや!話は今度じっくり聴くとして〜、とりあえず後で写真送っといてよ」
「は?写真ってなんの」
「だからそのあんたの好きな、なまえちゃんの」
「はぁ?!」
タイガの声が裏返る。
「な、な、な、なにいっでんだよ!!」
「なんでよ?ぱっと送るだけでしょー?……あ!あんたまさか、その子との写真一枚もないのぉ?」
そりゃ前途多難だわー、とため息混じりに姉に言われ、タイガは思わずムキになる。これまでなまえとは、今回の店も含めて色んな所に出かけたし、写真だってそれこそ今回撮っているのだ。まあ、撮ったのはなまえだし、まだそれを送ってもらってはいないのだが。
ふん、と――向こうには見えないが――腕を組み踏ん反り返り、タイガは言う。
「いや別に、写真くれぇあるし?!」
「あるんじゃん。じゃ、あとで送っといてね!あ、おかーさんもうご飯〜?わかった〜!……んじゃね!」
「え?!は?!お、おい!!」
懐かしい母親の声が一瞬したかと思えば、突然とんでもない締めの言葉を言われて姉からぶつりと電話を切られた。
タイガは呆然としながら切れた電話の画面を見る。ツー、ツー、という終話後の音が、むなしく漏れ聞こえてくる。
「……マジかよ……」
一難去ってまた一難。これだからあいつと関わるとろくなことがねえ、と姉の姿を思い浮かべながらタイガは長い長いため息をついた。